休日の過ごし方

 昨日の日曜日は一日遊んでいました。遊んでいましたと言っても、それは、さして面白くもないテレビをチラ見したり、本を中途半端に読んだり、ちょこちょこゲームをしたり、ネットサーフィンに思いの外時間を費やしたり、そうこうするうちに日はどんどん傾き、冬至も近いこの頃はあっという間に外は真っ暗です。そう、一歩たりとも外へは出ませんでした。思えば良い天気の1日でした。夕焼けがとてもきれいでもありました。「遊ぶ」のも人それぞれ色々です。大人の遊ぶ、子供の遊ぶ。公園で遊ぶ、遊園地に行く、ゲームをする、山を登る、野球する、映画を見る、ブラブラする、飲みに行く、海外旅行に行く、絵を描く、YouTubeを見る、ぼーっとする、数独をする・・・。感染症が広がる現在は、遊びが非常に制限されてもいます。最近再び、「不要不急」は控えてとも言われています。遊びは不要不急・・・なのでしょうね。

 ウィニコットという英国の精神分析家は、「遊ぶこと」playingを概念化しました。「遊ぶこと」は人間に欠かせない、決して「不要不急」ではないものとして。ウィニコットは、「遊ぶこと」は外界と内界、主体と対象、などの間を行き来する場であり、創造的なその空間で人は自己を体験する、というようなことを言いました。分かりにくいですが、子どもが炭治郎になり切っている時、大人が我を忘れて映画を見てる時、などを想像してみて下さい。その時、私たちは、ここにいる私、でもありますし、あそこにいる彼でもあります。現実から離れてそちらに心を奪われつつ、しかし、現実にも足を置いている。そんな狭間な感覚にいる時、人は創造的な自分と関わっているということなのでしょう。

 現実に生きる時私たちは、何かの役割や目的や課題に応じて期待や要求、義務、責任などを多かれ少なかれ背負っています。その私は、あくまで私の一部であり、全てではありません。それ以外の私と私自身が関わるには、「遊ぶこと」が必要で、それを見失うと社会的な自分も立ち行かなくなりかねません。期待や要求、義務、責任などに追われて「遊ぶこと」ができなくなっている時、それはとても危機的な状態と言えるでしょう。

 私たちは、現実や外界と関わるためには、そこから離れる空間をもつことが必要なのだと思います。それは自分自身を守るために必要なのだと思います。

 良く晴れた日曜、なにも成さずに終わりました。軽い罪悪感に言い訳するために、こんなことをせめて考えてみました。